▼勝因寺を巡る
庫裡
『現在の庫裏は、平成26年12月に完成しました。建築設計は平吹設計・工事施工は市村工務店にてお願いいたしました。
台禅和尚代 享保13年(1725年)夏上楝
棟 梁/山形市十日町住 堀江兵衛行広
苔庭(茶室前)
庫裏裏庭に、苔を張り日本庭園を造園いたしました。茶室があり月1回から2回ほど裏千家の先生の練習が行われおり、山門のしだれ咲く頃「観桜会」を開きお茶を召し上がっていただいております。椿、ツツジ、キンモクセイ、沙羅双樹、ツワブキ、周明菊、彼岸花などの花が咲きます。
仁王尊像
文化4年(1807年)建立。物津和尚は静松寺三世で、勝因寺住転となりました。尚、仁王尊像台座下には、法華経全文を一石一石に書いた小石が引き詰められています。金剛力士は仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは(ヴァジュラダラ)といいます。関口の阿形像と、口を結んだ吽形像のニ対を一対として、寺院の表門などに安置することが多いんです。一般には仁王の名で親しまれるいます。
開山 大江和尚
弘安9年(1286年)寂。鎌倉建長寺で御修行された禅僧であります。村山地方の禅寺は勝因寺をもって嚆矢としました。この地において、自主体得の深遠な臨済禅を弘通しようとした開山大江和尚の熱意がうかがわれ『中世禅宗史の研究』に勝因寺開山和尚を法燈派の渓雲至一としています。おそらく1253年来朝し、建長寺に住寺した宋朝禅の蘭渓道隆か、1269年来朝した大体正念の弟子であっただろうと思われます。
妙心寺開山無相大師(関山慧玄禅師)
関山慧玄(1277~1360)禅師は、信州・中野の城主・高梨美濃守高家の二男としてお生まれになりました。徳治2年(1307)建長寺で大応国師(南浦紹明)のもとで修行され、慧眼(後に大燈国師より慧玄と改名)という名をつけられました。国師亡き後、京都の大徳寺を開かれた大燈国師がわが国で最もすぐれた禅僧であると聞き、急ぎ京都に旅立ち大燈国師に参じ、ついに悟りを開かれました。開山さま53歳の時。その後、美濃国伊深の山里で「悟後の修行」に8年間も専念され、大燈国師が示寂されると、花園法皇は関山慧玄禅師を捜されます。そして都へ上られ妙心寺の開山となられました。その後、弟子の指導に明け暮れた関山慧玄禅師は、弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師を伴われて、開山堂側にある風水泉(ふうすいせん)の前で最後の法を説かれ行脚姿で立ったまま亡くなられました。後に、明治天皇より無相大師と諡されました。
延命地蔵参道のお地蔵さん
参道のお地蔵さんは、当寺が現在地に移転する前からありました。縁結び地蔵や子安地地蔵とも言われています。
達磨大師
禅宗の開祖。(中国禅の開祖)。お釈迦さまから数えて、28代目にあたるかた。南インドの王国の第3王子として生まれる。5世紀後半から6世紀前半の僧。
御本尊 釈迦如来
釈迦は現在のネパール国境付近の釈迦族の出身であります。釈迦は紀元前5世期頃、現在のネパールのルンビニで誕生。父はシャーキャ族の王で、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家して、35歳で覚りを開き、仏陀となりました。
枯山水(石庭)
庫裏玄関に、枯山水の石庭があります。作は山形市工藤造園。山門前のロータリーの石組みも工藤さんの作りです。枯山水は、禅宗の庭には昔より大変好まれ、年間通じて修行をするにあたり、花が咲いたり、紅葉したりとしないため目から邪
念がなく、一年中同じ風景であるので禅僧にには好まれ、枯山水は見る人によっていろんな風景に見える庭です。
銘木(海門の松)
第1世海門和尚(1670年寂)のお手植えの松。妙心寺派に転派した時の記念の松であります。龍が天に昇っていくような幹をした赤松です。大変珍しい松ですので一度ご覧になってください。
弁財天
七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される弁財天(弁才天とも書く)は、智恵・福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。
不動堂
大幢和尚代。享泰3年(1718)初夏完成。現存の建物では最古の物であります。お堂正面に不動明王・両側には33観音様が奉られています。
毎月24日に観音講中の方々が、数珠回をし、御詠歌をお唱えしています。
歴代和尚墓
正面には、開山大江和尚、両脇には中興開山大幢慧覚和尚・海門守信和尚(現在の地にお寺を移築した時のご住職)様がお奉りされ両脇に後のご住職方のお墓があります。
本堂
過去、2回の火災に合い現在の建物になりました。内陣には、御本尊お釈迦様・達磨大師・臨済禅師をお奉りしており、本堂奥には勝因寺開山大江和尚ほか歴代祖師方を安置しております。
大幢和尚代 元禄13年(1700)夏上棟
棟 梁/村山郡新庄領小国下村 久作
山門
『高寶山』の山号の額は、大龍寺住職白瑛和尚様の書であります。山門二階には、正面に観音様。両脇に十六羅漢像を安置しております。十六羅漢像は寄木作りで、一体一体に色彩が施されています。作者・年代については不明です。内部は外装と同じように朱に塗られ、天井には絵柄や文字がえがかれています。
泰応和尚代 明和4年(1767)
秋上棟/外装は朱塗り。
棟 梁/会田久太郎
大 工/庄兵工、弥兵工、重次郎、喜惣治、庄太郎、十次郎、堤匠、堀江善助、武助善五郎